リンカーン日誌

或る量的遺伝学者のテニュア取得までへの道

初めての就職活動顛末記

すべての事の始まりは昨年の夏にボスから届いた1通のメールでした。ちょうど自分はミシガン州にてインターンの最中でしたが、ドイツ滞在中のボスから「今年は数校がテニュア・トラック職を募集している。実際に採用されるかどうかは未知数だが、今のお前は有力な候補者になるだろう。いい機会だから応募することを奨励する。」という主旨のメールを頂いたことに端を発します。

当時の自分は卒業後に1年〜2年程ポスドクを経験した後に日米を含むアカデミック市場へ打って出ようという考えでしたので、仰天したのを覚えています。しかし自分の研究や業績のことに対して、ボスから肯定的な評価を頂いたのは師事して以来初めての出来事だったのでとても嬉しく、オファーを貰えなくても面接にさえ呼ばれればいい経験になるのだから挑戦してみようという気概になりました。

以下が自分の就活記録です。

2013年

  • 09月上旬:東海岸にあるA大学に応募する。
  • 09月中旬:ネブラスカ大学リンカーン校に応募する。
  • 10月上旬:ネブラスカ大学リンカーン校から最終候補リスト(ショートリスト)に残った1人だと知らされる。
  • 10月下旬:ネブラスカ大学リンカーン校から正式に面接の招待が届く。
  • 11月上旬:ボスからの極秘情報でA大学が僕以外の2名を面接に招待していると知る。この時点でA大学は不採用となることが判明。
  • 11月中旬:西海岸にあるC大学に応募する。
  • 11月中旬:ネブラスカ大学リンカーン校は僕を含めて3名の候補者を面接に招待していることを知る。
  • 12月上旬:ネブラスカ大学リンカーン校にて2泊3日の面接。
  • 12月下旬:クリスマス後の27日午前に学科長から電話がありネブラスカ大学リンカーン校からオファーを頂く。学科長曰く正式なオファー・レター(内定通知書)を送付する前に、僕自身が希望する条件(着任日・スタートアップ資金・給与・福利厚生)を大学側に伝えて欲しいと言われたので、南の島のビーチでバカンス中のボスの助けを借りながら一生懸命考える。

2014年

  • 01月上旬:学科長からFedExにて正式なオファー・レターが届く。着任日・スタートアップ資金・給与・福利厚生・テニュア条件などに関する事項が記載されている。自分の希望が受け入れられた箇所もあれば、受け入れられなかった箇所もある。何度も読み返す。ボスを始めとするウィスコンシン大学マディソン校の教授陣にもアドバイスを頂く。学科長に疑問点や質問を電話で何度も尋ねる。数日後に学科長へ直接電話をしてオファーを受ける意向を伝える。オファー・レターに署名して大学へ郵送する。これにてネブラスカ大学リンカーン校と正式に契約する。
  • 01月下旬:西海岸にあるC大学へ応募を辞退する意向を伝える。
  • 02月下旬:A大学からメールにて正式に不採用の連絡が届く。ボス情報によると、A大学は某大学のアシスタント・プロフェッサーを採用したことが判明。

要約すると初めてアカデミック市場に打って出た昨年は合計3校の大学に応募して、A大学は書類段階で不採用、ネブラスカ大学リンカーン校は面接に呼ばれた後にオファーを受け、C大学は最終候補者決定前に辞退という結果でした。

正直に言うと独立する前に1年程はウィスコンシン大学マディソン校を離れてポスドクとして異分野にて新たな経験を積みたい気持ちもありましたが、いくら量的遺伝学では供給が需要に追いついていないからといって、今回の機会を逃したら次いつテニュア・トラック職を得られるのかはわかりません。最初のテニュア・トラック職を勝ち取るには時機がとても重要ですし、3校もの研究重視の大学が同時に募集する機会は当分ないかもしれません。

こちらのブログでも触れられていますが、Ph.D.取得間近または取得直後の人物を評価するのは至難の業だと思います。

「大学院を修了して10年・20年後にどんなポジションにいるかというのは100%実力だけど、大学院修了後最初にどこに就職できるかというのは実力半分・運が半分だ」

歳月が流れて歳を重ねるにつれて他者は自分の能力・業績を長い目でより客観的に評価することが可能なので、偶然性や運が作用する要素は少なくなっていくのは確かでしょう。そういう意味では、運の入り込む要素が少なくなるPh.D.取得後のこれからが、本格的な挑戦の始まりなのは間違いないです。